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お稽古体験レポート!
空手「日本空手道松濤會」中編 −近代空手道と松濤會の歴史の巻−
空手の発祥の地は沖縄です。沖縄古来の武術、「手(ティ)」。これに中国拳法が融合し、後に「唐手(トウーディ)」と呼ばれるようになりました。沖縄・琉球王朝の尚真王(1477年〜1526年)の刀狩の実施と、薩摩の琉球侵攻(1609年)後の禁武政策により、戦う手段が制限された士族の間で発展を遂げましたが、個人的に師から弟子に伝えられていたものであったため、一般には知られないままでした。 しかし明治に入ってからは状況が変わります。学校体育で正科として教えられるなど、継承者の努力で唐手は一子相伝の武芸から脱し、近代化が進んでいきます。 そして、一人の人物の登場により、日本本土で初めて唐手が公開されることになります。1922年5月、東京にて開催された文部省主催の第1回古武道体育展覧会。船越(当時は富名腰)義珍は沖縄県学務課の要請で出席、「唐手」の実演・講演を行いました。その妙技は大勢の人をうならせ、多方面の関心をかき立てました。こうして空手は沖縄のみの武術ではなくなります。 展覧会終了後、船越義珍氏はさまざまな場所で講演や実演をし、空手の啓蒙と普及に励みました。また「琉球拳法 唐手」を皮切りに次々と著作を発表。ついに沖縄へは戻らず東京に在住し、唐手研究会を発足、各大学・警視庁にも指導へ赴きました。
さらにはその精神性を積極的に突き詰めていくことで、空手は武術ではなく、武道へと変化。「空手道」になったのです。 以降、空手はさらに組織化されていき、「大日本空手道研究会」が発足、その後、「大日本空手道松濤會」に改称。1939年には専門道場「大日本空手道松濤館」が雑司ヶ谷に落成しました。 しかし第二次世界大戦が勃発。松濤館は戦災で消失し、敗戦後はGHQ(連合国総司令部)より「軍国主義に加担した武道は禁止」との通達を受け、存続も危うくなります。その危機をどうにかくぐり抜けたものの、戦後の混乱期、松濤會はなかなか本部道場の再建に取り組めませんでした。しかし、関係者の努力の末、とうとう1976年、芝浦に「日本空手道松濤會本部道場松濤館」が再建されます。多種多様な流派が生まれる中、空手界に船越義珍氏の道統を守り続けたいという松濤會の悲願が達成された瞬間でした。現在、道場は墨田区菊川に移り、空手の普及を続けています。
松濤會では、空手は「精神修養の道であると共に、誰にでも出来る、体力がなくとも長く続けられる体育であり、健康法であり、護身術である」という教えを守っています。これは空手道が、筋力、体力の優れた人たちのための武術ではなく、あらゆる年代、あらゆる人種にとって、性別を問わずに取り組めるという事です。 また、松濤會は、「型に忠実であれ、空手に試合はないのだ」という船越義珍氏の遺訓を遵守し、「型」稽古を重視した稽古体系を守っています。勝ち負けよりも修練、鍛錬がその目的です。 なお、「松濤」とは、船越義珍氏の雅号だそうです。松のように堂々と、岩に砕ける波濤のように力強くとの思いから「松濤」とされたのだそうです。 最後に「空手道二十訓」を紹介します。空手の心得というより、人生訓そのものという感じですね。
前編 −空手道場初体験の巻− 後編 −空手道と松濤會のQ&A集− ▼沖縄デジタルアーカイブ「Wonder沖縄」沖縄の伝統空手・古武術 http://www.wonder-okinawa.jp/023/index2.html
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